優柔不断じゃなくて、「分かってない」

以前町内会のイベントで、参加していたおじさんとお話する機会があったんですよ。

その時、何についてかは忘れたんですけど、意見を聞かれたんです。君はどう思う?って。

僕は返答に困って、しばらくしてから「すみません、僕、優柔不断なもんで」と言ったら、そのおじさんがこう言ったんです。

「自分優柔不断です、ていう人いるけど、優柔不断ってものは実はないんだよね。そうじゃなくて、分かってないの。その人。自分がどう思ってるのか。分かってないから、決められない。だから、優柔不断じゃなくて、分かってないってことなの。」と返されたんです。

え?違うけど?と思って。想定してなかった返答だったので、面食らいました。

とりあえずその場はおじさんのありがたいお話をしっかり聞く若者を演じ切りましたが、モヤッとしたままで。

しかし時間が立つうちに、そうかもしれないな、と思うようになったんです。自分に大して優柔不断だな、と思うときって、果たして本当に状況が、自分のやりたいことが分かっていたか?と考えると、疑問なんです。

そういうときって、大抵は自分の事がわかっていなかった。いや、自分をごまかしていた。

おじさんのお話はそんなネガティブなものではないと思いますが、僕はこの話を意見を言うことと言わないことの葛藤から、都合のいい言い訳として優柔不断という言葉を使うのだという解釈をしました。

おじさんとの会話も、おじさんが僕の回答にどんな反応をするのか忖度して、自分の本当に思うことを言えていなかったんです。

優柔不断って人は、もしかしたら自分の意見を押し殺してしまっているというサインかもしれないです。たまには、自分のわがままにとことん付き合う日が必要かもしれません。

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